maguro_ryo’s blog

だいたい20歳の人間がだいたい適当に書くやつです

「望んだことが間に合わなかった」という人の痛々しい微笑みが一番苦手、そんなもんは、元来至る所に備わっている矛盾の装置を一気に起動させてしまうような究極の大自然。そんなもんは、そこに存在していた方向(契約/モラル)がすれ違って破滅するような究極の大災害。私が目の前の水溜りにスマホを落とさないで維持しているのも、私が目の前のお前を殺さずに維持しているのも、別にそんな物理法則はなかったはずで、なんなら物は落ちるべきだし、お前を殺す手立てだって無数にあるはずだった。私はそういう自由が一番苦手で、だからこそフェティッシュなものとして希求している。演劇であっても、美術であっても、詩であっても、なんでも。

 

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そういうわけで、私が芸術と学問に同時に惹かれることは説明できる。元来至る所に備わっている矛盾の装置を、触感化するのが芸術であり、元来至る所に備わっている矛盾の装置を、人々がどう扱おうとしてきたかについて学び、これから最大限整頓するためにどうしたらいいかを思考するのが学問である。「文学のふるさと」を私なりに飲み込むと、坂口安吾文学のふるさとに帰ることが大人の仕事ではないと言ったことは、まさに元来至る所に備わっている矛盾の装置を、それそのものの状態として野放しにするのが大人の仕事ではないということだ。それがなぜか? は難しい。おそらく、人間が言葉をもって団体で生きることをどこかの段階で選んだから。なぜ選んだか? はもっと難しい。たぶん、その方がいい感じ〜と思った人が多かったから、雰囲気としてそうなってきただけだ。過去の地点をどうこうこねくりまわそうという足掻きは不毛である。過去は印象であるから、今どうしたいかを考えるにとどめる方が楽だ。

 

話が逸れたが、とどのつまり、私はせめて幸せでありたい。ここで言う幸せとは、元来至る所に備わっている矛盾の装置に触れることと、それを整頓してなんとかやり過ごそうとすることの、釣り合いが取れている状態である。どちらが欠けるのでもいけない。全てを完全に整頓しきれると考えることも、全ては矛盾の意思のままにあるべきと考えることも、同じくらいに役に立たない。なぜなら、矛盾するところに存在のうまみがあり、整頓するところに存在の快復があるからである。芸術と学問は、せめて幸せであるために、私たちが今日まで生きてきた不遇に反抗する手立てである。

 

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そうはいっても、エネルギーは限られていて、私はもう布団にくるまって眠ってしまいたいので、寝ます。おやすみ。